丹生谷貴志『三島由紀夫とフーコー〈不在〉の思考』
- 作者: 丹生谷貴志
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2004/12/01
- メディア: 単行本
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……注意しなければならないのは、三島が単に「この世界」の虚無を指し示そうとしているのではないことである。世界が虚無であるなどといったことは、誰でもが口にする幼稚な嘆息に過ぎない。それでは単純過ぎよう。虚無は「言葉」の病に過ぎない。「この世界には意味がある」という「言葉」の言明がある故に逆に「この世界には意味がない」という言明が生ずる。そしてそうした言明は「世界という言明がある」という「現実」とは無関係の場所で作動するシステムの問題に他ならず、それ以上でも以下でもない。だから問題は、世界の虚無を再認することなどではなくて、「言葉」によって消し去られて来た「現実」の貌なのだ。「言葉」においてはただ不在の薄明に置かれ続けてきた「現実」の貌なのである。……「〈何もない〉の現れ」とは虚無の現れではなくて「現実」の貌の現れ……ようやく「言葉」から解放されようとする「不在の何か」の現れへの祝祭となろうとするのだ。
何というか、丹生谷貴志の文章は読んでいてすごく「腑に落ちる」。「よくわかった」ような気がする(ことが多い)。
三島もフーコーもまともに読んだことないんだけどね。
ちょっと話は逸れる。最近、あまり小説を読めない理由が何となくわかった。小説を「書かれているとおりに読む」ことができなくなっているのだ。全体の構成における位置づけとか、隠された含意とか、書かれていることの「裏」に繋がっているものを必要以上に読もうとしてしまう。だから、最近は何を読んでもあまりおもしろくない。
語弊のある表現だけど、その意味では「評論」は基本的に「書かれているとおりに読む」だけでいい。もちろん、理解するために思考が必要な場合もあるけれど、それはあくまで「書かれていること」を理解するために必要なだけで、実質、「書かれているとおりに読む」ことには違いない。そんなわけで、この本はとても楽しんで読んでいる。
一緒に斎藤環『文学の兆候』を買ってきたので、しばらくは非小説本を中心に読むつもり。