大澤真幸『文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える』

以下は、5/17(http://d.hatena.ne.jp/helioterrorism/20030517#p2)の記述にかんする補足、並びにid:yuzuki-mさんからいただいたコメントに対する返信になります。
これは、非常に些細な言葉づかいの問題なのでしょうが、やはり「テロリストへの憧憬」という表現には違和感を覚えます。
アメリカが「第三者の審級」あるいは「大きな物語」を無意識に捏造しようとしている(あるいは、はじめから自明のものとして存在しているかのように振る舞っている)のは確かでしょう。そこに、自国には存在しない強固な概念に対する「憧憬」があることも間違いないと思います。しかし、それは「第三者の審級」あるいは「大きな物語」そのものに対する「憧憬」であって、それを有する他の誰かに対する「憧憬」とは違うのではないか、というのが私が感じる違和感です。「テロリスト」は「第三者の審級が正常に機能している状態」の比喩だという読み方もあるかもしれませんが、少なくとも私にはこの本においては「直喩」の範囲を超えて用いられているように感じます。
以下は、たとえ話です(たとえ話を持ち出すのはどうかと思うんですが、他に説明の方法が思いつかないので)。
ある人物(A)が恨みを抱く人物(B)を残酷な方法で殺害します。これは復讐としての殺人です。Aは自分の正しさを疑っていませんが、その行為が社会的に犯罪としてみなされることは承知しています。
Bの肉親でる人物(C)がいます。Cは愛する肉親を殺害したAに憎悪を抱き、その死を望みます。死刑がかなわなければ自分の手でAを殺害しようとも考えます。しかし、実際にはCはAを殺害することができません(物理的に不可能なのではなく、心理的に不可能)。
このとき、社会的な制裁を受けることを厭わずに復讐を完遂したAに対して、直接的に復讐することができないCは「憧憬」や「劣等感」を抱くでしょうか?
Cが復讐という行為に「憧憬」を抱いている、というのは納得できますが、それはAに対して「憧憬」を抱いているというのとは違うのではないか、というのが私の意見です。