伊坂幸太郎『チルドレン』

チルドレン
うーん。どうも伊坂幸太郎の文章とは相性が悪いみたい。
「お話」としては決して嫌いではないんだけど、細部描写の薄さと、その一方で(個人的には余計と感じる)説明的な表現が散見して、読んでいて引っかかることがたびたびある。
例えば、

「何の映画だ」鴨居は訊ねながら、おそらくはその映画は繊細で美しい、人の心の機微を描いた作品に違いないな、と想像を膨らませた。何と言っても、音楽が人を救う映画なのだから、と。
 すると陣内が平然とした顔で、こう答えた「確か、『○○○○○○○』の二作目だ。『○○○○○○○2』、だったかな。
「あ、そう」鴨居は肩をすくめる。(「バンク」P.24/文字色の変更、○による伏せ字は引用者による)

鴨居の「期待」と陣内の「回答」の落差を表現するのが目的であえて空々しい言葉を用いている、というのは理解できるんだけど、鴨居の「期待」をここまで説明する必要があるのだろうか、と思う。極端な例になるけど、文字色を変更している箇所が、「鴨居は興味を抱いて訊ねた。」だけだったとしても、ほぼ同じ効果は得られるのではないだろうか。

鴨居が目をつけていたシャツは、とてもしっかりとした素材だった。少なくとも手触りからは、そう感じられた。今回は、冗談を言うつもりもなかった。だから、正直な感想を伝えたのだけれど、すると鴨居は、「なら、これにしよう」と即座に決めた。彼の決断力はとても清々しい。(「イン」P.258/文字色の変更は引用者による)

視点人物が実際に「清々しい」と感じた、のは確かにそうだろう。でも、読者としては余計なお世話だ、と思ってしまう。彼の「即座に決めた」決断力が本当に「清々しい」のであればそんな「説明」は不要だし、そうでないのなら空々しいだけだ、と思う。
「言葉づかい」の「好み」の問題、といってしまえばそれまでなんだけど、おもしろい「お話」が不用意な(と私が感じる)「言葉づかい」のせいで充分に楽しめないのは非常に残念。もっとも、「お話」と「言葉づかい」がそれぞれ独立して小説を構成しているわけではないのだから、私が伊坂幸太郎の小説と相性が悪いと感じるのは必ずしも「言葉づかい」のせいだけではないのだろうけど。